文章を生産する仕事がしたかった
連投で申し訳ない。俺です。
単刀直入に本題に入るけれど、タイトル通り俺は自分で何かを生産する仕事がしたかった。現在は全然そのような仕事に就いたわけではないけど、まあ楽ではあるけれど。
話は昔に遡って。
高校時代俺は文章を書くのが好きだった。
文章を書くというよりも自分の気持ちや考えを何かの媒体に表し誰かに読んでもらいたい、見て賞賛されたいという欲求にかられていた。
あいにく、俺は絵を描いたり歌で誰かに気持ちを伝えるような才能もなかったわけで...
作文といった形でチャレンジはしてみたもののやはり学もなかった俺にはボキャブラリーの無さに自分の気持ちを字に表すことも苦手であった。
苦手というよりも自分で自分を過大評価していたところはある。だからこそ、これではだめだといつも途中で萎えてしまい中途半端な作品ができてしまうのであった。
そんな時、古典の授業で「山月記」という作品を学んだ。ほとんどの学生がこの作品を学んでいると思うが、まさに俺はこの作品にすごく共感された。
内容は李徴が自分の才能に愉悦し過ぎたため最後は虎となり自分の才を過信し過ぎたことを悔やむといったものだ。
これは当時学生であった俺には衝撃的な事実を与えられた作品であり、全国の学生諸君に教訓として心に根深く残っているのではないかと思う。
これを学んだ後俺は考え方に余裕がなくなってしまった。
自分には才能なんて本当はないんじゃないかと、自分は他の誰とも変哲も無い存在なのじゃないのかと思い始めたのだ。
誰もが自分は特別な存在。
"選民思想"を持っているのでないかと思うが、俺はここでこの考えを持っていた俺自身を悔やむこととなったのである。
まあ、ここで悔やんだ学生諸君は全国に何万といたと思うが当時の俺には衝撃過ぎた。
そんなこんなで、そのときの俺には何かを生み出すような特別なことができないと考え現在の職に就いたわけである。
だが、今考えれば誰しも必ずしも才能を持っているわけではない。だが、才能を開花させるチャンスは幾度となく存在しているんではないのかと人生の経験上学んだ。
もし、この記事を読んだ学生諸君がいるならまずは勉強をし自分の才能が芽生えはじめるまでは夢を諦めないでほしい。
と、人生を語る若造でした。
熊